07/08/2005

東直子氏による時評

7/8付公明新聞、東直子さん執筆の時評「ネット時代の歌人たち」に『きりんのうた。』より一首を引用していただきました。以下に一部引用します。

従来の「私性」の殻を抜け出して
透明な存在としての感性打ち出す

これらの作品に共通するのは、自分の実人生を短歌に定着しようという欲求は希薄で、その時々の自分の感覚を短歌という言葉の形式で切り取って掲示してみせている点である。ここにある感受性のきらめきの前には、年齢や境遇といった個人的データは必要がない。こうした感覚勝負の歌は、ニューウェーブと呼ばれた八〇年代の物語性の強い短歌から演出を排除し、絞り込みをかけたとも言える。

東直子さんのサイトはこちら

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11/12/2004

田中庸介氏の紀行文

白山書房「山の本」2004年秋号にて、田中庸介さんが連載中の紀行文「五合目のいなりずし」第7回「九月の箱根外輪山」のなかで『きりんのうた。』より一首を引いて下さいました。(以下抄出)

 ただ知っていればいいのだみずうみが遠いどこかで澄んでいること  ひぐらしひなつ

 これは同世代の歌集『きりんのうた。』からの引用である。単純なことばのなかに、とても深い絶望を書ききっている。
「みずうみが遠いどこかで澄んでいること」とは、白いポジティブな世界観を象徴しているとしよう。「ただ知っていればいいのだ」という句で作者は、そんな白い世界観が「たしかにある」ということをはっきりと提示するとともに、現実にはその中でずっと生きていくことはできないという、どす黒い世界に生きる現在の自分の諦念をも示してしまっている。いつも心のどこかに、山の深く澄んだ湖の群青を秘めて生きていくことは可能だろうか。読者はそう自問させられるが、作者は決して押し付けがましく要求してくることはない。ピュアな世界があるということをまずは知っているべきだ、でもただ知っているだけでいい、というその言葉からは、酷薄な現実世界を生きる孤独な同志からのやさしい慈愛が伝わり、そんな夏の出口の澄んだ心の風景に、肩の重荷がふっと楽になる。

田中庸介さんのサイトはこちら

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10/03/2004

岡井隆氏による書評

「短歌ヴァーサス」第5号 特集「新鋭歌集の最前線」に岡井隆氏による書評「『きりんのうた。』を読む」が掲載されています。

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09/16/2004

朝日新聞「ネットの土壌が育てる歌人」

9/16付朝日新聞朝刊文化面にて「ネットの土壌が育てる歌人」という記事が掲載されており、斉藤斎藤氏、石川美南氏、ひぐらしひなつの歌集が紹介されています。記者は大上朝美氏。

■奥村晃作氏
 「オクムラのうたざんまい日記」9/16付

■荻原裕幸氏
 「ogihara.com」9/16

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09/12/2004

佐藤りえ氏によるコラボ展感想

佐藤りえさんが「La Dolce Vita」のdiary(9月12日付)にて「Metamorphose」展の感想を書いて下さいました。

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08/07/2004

菊池典子氏による鑑賞文

菊池典子氏がWEB日記「ひかりの方舟」8月7日付にて『きりんのうた。』鑑賞文を書いて下さいました。

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島なおみ氏によるエッセイ

「月刊短歌通信ちゃばしら」8月号「オンライン短歌ショーケース」にて、島なおみさんが『エッセイ・いま注目する現代歌人「ひぐらしひなつ」』を書いて下さいました。


●―エッセイ・いま注目する現代歌人「ひぐらしひなつ」
  |
  ● 島なおみ

 同い年のこの人にいつのころからかファンであって、ファンが作家を理解できるのかと問われればそうではなく、ファン以上の発言ができないのは困ったものなのだが、

読みかけの新潮文庫を閉じるときあのはつなつの開脚前転/ひぐらしひなつ

 第一歌集『きりんのうた。』(BookPark)より「初夏の開脚前転」の表題作。
 開脚前転が美しく見えるのは、勢いをつけた時なんじゃないよ、腹筋や腕の筋力を使ってゆっくり回ったときなんだよ、って、体育の時間、体育のせんせいに教わった。
 戦前戦後のモダニズム文学の洗礼を受けない詩人は未だにそうそういないと思われ、ひぐらしひなつ氏の言葉の周旋や表現対象にもその影響は感じられて、例えば近作の「球体関節人形」といったタイトルにシュール・レアリズムの写真作家H・ベルメールを思う人は多かろうし、写真とのコラボ展「Metamorphose」といったネーミングからも作家の趣味が十分伝わる。ただ、ひぐらし氏の実際の短歌作品は、タイトルイメージから少し距離が置かれ、腹筋をふるふるさせながら真っ直ぐ伸びつつくるーり回って着地したり、鉄棒からもう零れてしまってもいいのに上腕筋でふるふると持ちこたえていたり。と、モダニズムからはわずかに遠い健康さ、甘酸っぱい痛々しさがある。歌を詠むための腹筋とか上腕二頭筋とかが、すぐれて美しい歌人なんだろう。

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07/20/2004

東郷雄二氏による書評

東郷雄二さんが「今週の短歌」で『きりんのうた。』を取り上げて下さいました。

[61] 7月第3週  ひぐらしひなつ または、足を折るきりんの世界はしずかに崩れてゆく

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06/01/2004

中日新聞「けさのことば」

中日新聞5/25朝刊一面に岡井隆さんが連載中の「けさのことば」で
歌集『きりんのうた。』より一首が紹介されました。

あおいさかなが迎えにくるから行かなくちゃ 絡まったまま揺れるゆびさき/ひぐらしひなつ

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12/08/2003

佐々木麻里さんによる書評

「音」12月号に、佐々木麻里さんが書評を書いて下さいました。

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09/15/2003

田島邦彦氏による時評

「短歌四季」9月号の田島邦彦さんによる「ネット短歌と脱歌壇」の中で
歌集『きりんのうた。』より一首、紹介していただきました。

「さよなら」の「ら」を鳴らせずにこときれたオルゴールからこぼれる明日/ひぐらしひなつ

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09/01/2003

神崎ハルミ氏による書評

「月刊短歌通信ちゃばしら」8月号に連載中の【出涸らしでっせ!】にて、神崎ハルミさんが書評「『 き り ん の う た。』 を 聴 け 」を書いて下さいました。

第6回【出涸らしでっせ!】 文・神崎ハルミ

「『 き り ん の う た。』 を 聴 け 」


 こわれゆくおもちゃのように手を振った虚空に刺さる遮断機の下

 永遠に時間が止まったかのように遮断機は開いたままなのに、〈私〉はといえば線路を越えて向こう側へ行こうとはせずに手を振り続けているだけ。それも、「さよならは嫌!」という感情を無理やり払い除けるかのようにがむしゃらにノノ。彼女の顔はきっと、涙でぐちゃぐちゃのはず。痛々しいまでの決意が感じられる歌だ。

 この歌は、ひぐらしひなつ第一歌集『きりんのうた。』(歌葉叢書18)の冒頭歌として、一ページに一首のみ太字で大きく印刷されている。歌集の宣伝サイト(http://www2.spitz.net/hinatsu/kirin.html)に掲載されていた自選十首のなかで最も印象的な歌であり、歌集が手元に届く前から好きな歌だった。

 「あとがき」で彼女は、この歌集が「一度は見失いかけた自我の奪還を目指して闇雲に走ってきた時代に区切りをつけるため」のものだと述べている。ひょっとするとこの冒頭歌は、今までの彼女自身への訣別宣言なのかもしれない。見失いかけた自我は、過去を抹消しただ前へ前へと突き進むだけでは取り戻せはしないし、逆に過去へ過去へと遡るだけでも取り戻すことはできないだろう。だから、とんでもなくやっかいなのだ。

 「組みかけの模型」、「読みかけの新潮文庫」、「読みさしのボリス・ヴィアン」、「描きかけの画帳」、「死にかけたトラ」、「食べかけの林檎うさぎ」ノノ。自我の奪還をめざし悪戦苦闘するひぐらしが無意識のうちに表出したかのように、『きりんのうた。』では、何か途中の状態にある物やそれを含んだ場面を詠んだ歌が非常に目に付いた。次の「さよなら」の歌でも、鳴り終わる途中で壊れてしまったオルゴールが比喩的に詠み込まれている。

 「さよなら」の「ら」を鳴らせずにこときれたオルゴールからこぼれる明日
 
 彼女は自我の奪還に成功したのか。それは私にはわからない。しかし、短歌と出会い、こうして第一歌集をまとめることによって、自分自身、そして他者、あるいは彼女を取り巻く環境となんらかの折り合いをつけることができる地点には到達することができたのではないだろうか。

 いつまでもとけあわないから抱きあえる。ふたりはふたりだから。帰ろう。

 なくならない。
 なにもかわらない。
 いっしょにいても。
 はなれても。 

 このように結ばれる詩が、歌集冒頭歌が掲載されたページの隣に置かれている(動物園で死んだきりんは切り刻んでから埋められる、というエピソードを含んだ詩だ)。また、その前に挙げた歌では、「ふたりはふたり」、「いつまでもとけあわない」ままでいるからこそ「抱きあえる」んだという彼女が獲得したひとつの真理が詠われている。

 濡れながら芝生を掘った たいせつなたいせつなものだからこの手で

 大切なものだからこそ自分自身の素手で穴を掘り、ひとつひとつ確認しながら手厚く埋葬してゆく。彼女は、動物園で死んだきりんを切り刻んで埋めるのと同様の作業を短歌を通しておこなってきたといえるだろう。

 羊水に溺れそこねて手のひらで膝の丸みを確かめている 
 夜の河に金魚を放つ今つけたばかりの名前をささやきながら
 ゆるやかに漕ぎ出す舟は河口へと着く頃しずかに燃え尽きるだろう
 駅裏の放置自転車つぎつぎに倒れはじめてパレードが来る
 ただ知っていればいいのだみずうみが遠いどこかで澄んでいること
 汚れてもいい明日またこの場所で天王星を探せるのなら

 これまでずいぶん的外れなことを語ってきたかもしれない。しかし『きりんのうた。』が〈詩性〉に富んだ歌集であるということは自信をもって言える。ひぐらしの歌は、私の五感に、そして五感を超えたところに訴えかけてくる。

 以前、きりんという動物は、こうもりと同じように人間には聞こえない周波数で互いにコミュニケーションをとっていると聞いたことがある。ひょっとしたら、きりんたちは僕たちの遥か頭上の空気を会話だけでなく歌声によっても震わせているのかもしれない。ひぐらしひなつは、『きりんのうた。』を足がかりにして、これからもきりんのように語り、歌い続けていくことだろう。彼女のことば、そして歌声に今後もじっと耳を澄ませていきたい。


 遠い目をしてぼくを見るあなたなら〈きりんのうた〉を知っているはず
                              神崎ハルミ

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小川真理子氏による書評

角川「短歌」9月号「ほんのページ」にて
小川真理子さんが書評を書いて下さいました。

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07/31/2003

江戸雪氏による書評

「歌壇」8月号時評「さよなら『世界』」にて、江戸雪さんが『きりんのうた、』について書いて下さいました。

  やわらかく脈打つからだここにあるすべてのものを消して なのはな

  いつまでもとけあわないから抱きあえる。ふたりはふたりだから。帰ろう。

  嘘ではない、嘘ではないがどこまでも滑らかである彼の言葉は

 五月の終り、ひぐらしひなつの第一歌集『きりんのうた。』が出た。彼女の魅力的な歌は雑誌などあちこちで目にしていて、心待ちにしていた歌集である。まず、一首ごとの完成度は高い。作者の透明なひとつの器に充たされた涙や優しさ、そしてもっとうまく生きられたら負わずにすんだかもしれない哀しみをむしろ慈しんでいるようにもおもえる。
 だが、歌集全体としてインパクトの弱さも感じる。というのは、歌集一冊のなかに読者へまっすぐスパークする歌がなかったのだ。少なくとも私は、この歌集の一番よかった歌をあげなさいと云われても出来ない。なぜだろう。
 たとえば今あげた三首。これらの歌はどれもいい歌なのだが、「ここにあるすべてのもの」「いつまでも」「どこまでも」といった甘くて耳ざわりはよいけれど、曖昧なイメージしか結べない言葉が歌集全体にちりばめられていて私はとても気になった。どの頁を開いてもこのようなたぶん近田の云う「官能的な」日本語にぶつかるのだ。つまり「ここにあるすべてのもの」と云うのではなくて、作者の、私が想像できないような何かがはっきりとイメージできるような表現に私は出会いたい。

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07/25/2003

藤原龍一郎氏による書評

「短歌人」8月号、藤原龍一郎さんの時評「新人とは何か?」にて、歌集『きりんのうた。』を紹介していただきました。

 オリジナリティという点で評価すべき歌集も刊行された。

・ティールームはあかるい雨に包まれて手を取りあえばあふれる空虚
・金魚きんぎょ さざめきながらあの路地を曲がればいつも会えたひとたち
・万年筆の青いインクを滲ませる指の記憶は鎖骨のかたち
・肩に手を置かれたままで読みさしのボリス・ヴィアンが風に捲れる
・さびしくてペンうごかせば横顔をゆびはおぼえていたのだろうか

 ひぐらしひなつ歌集『きりんのうた。』(BookPark刊)より引用した。しなやかで流線型の文体が魅力的だ。若い女性の短歌にありがちなアイテムやシチュエーションでありながら、ひぐらしひなつとしての個性を主張しえているのは、ものほしさがないからだと思う。一首のどの一語にも媚びがない。だから、すべての単語が意識的に連鎖して、心地よい洗練感覚を生み出している。気分だけで作られた類歌には、不必要な妄語がはめこまれ、そこが読者への媚びとなって、一首の品格を下げてしまう。しかし、この作者の作品には格助詞一つにまで必然性が感じられる。丁寧に詠っていることが個性を生み出しているのである。精神論的に聞こえたとしても、短歌はやはり詠わずにはいられないという根拠が精神の内部にゆるぎなく存在しなければ、一首として屹立しない。ひぐらしひなつの歌が読者をひきつけるのは、彼女の表現意志の強靭さなのである。

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07/12/2003

村上きわみ氏による紹介

村上きわみさんがご自身のサイトにて歌集を紹介して下さいました。


■2003/07/12 (土) 『きりんのうた。』ひぐらしひなつ歌集
 http://www2.ocn.ne.jp/%7Echimera/
はりつめているのに息苦しさがない。
早々とあきらめてしまうような、安易なシニシズムはどこにもない。
といって、暑苦しいエネルギーとも無縁。
バランス。
底にある、一見捨て身のような、けれど真摯な、祈り。

長い日数をかけて読んでいた。
日を変え、附箋の色を変え、台所で、寝床で、待ち合い室で、ひらく。
ひらくたびに新しく発見し、立ち止まりながらも、前半に多くの附箋がついた。
うまい歌たちの、その「うまさ」に頓着していないような表情にも嘆息する。

泣き顔のうつくしい人はすてきだ、と、唐突に思うのだった。
涙のあとが筋になったまま乾いてはりついている頬を、うつくしいと思う。
存分に泣きじゃくったあとに、立ち上がり、ほほえむちから。
歩いてゆくということ。
どれほど暗い場所にあっても、ひかりへと、目を据えて。

胸から胸へ、まっすぐ届く歌集です。
 
 

  やわらかく脈打つからだここにあるすべてのものを消して なのはな

  泣きやんでつがいの鳥の青白い胸をあわせて空へ放した

  君はもう春のひかりにとけながらどうしてそんなに笑ってばかり

  濡れながら芝生を掘った たいせつなたいせつなものだからこの手で

  まろび出た卵はまるく焼けながらなお傷ましくつながるふたり

  夜の河に金魚を放つ今つけたばかりの名前をささやきながら

  蠍座の心臓が燃え尽きるまで見ていてあげる まわれ映写機

  ただ知っていればいいのだみずうみが遠いどこかで澄んでいること

            『きりんのうた。』ひぐらしひなつ歌集(歌葉)より

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07/06/2003

花森こま氏による紹介

花森こまさんが、ご自身のサイトにて歌集を紹介して下さいました。
http://fruit.gaiax.com/home/hansulove

ひぐらしひなつさんの歌集「きりんのうた。」が届く。表紙がとても可愛い。
彼女の歌は、抒情に押し流されていないところがいい。かといって、乾いているというのとも少し違うのだが。
明るい哀しみが漂っている、というのか。
前に荻原さんの日記の文章ではじめて彼女の短歌を読んで、俳句的な断絶が一首の中に緊張感をはらませていると感じた。言葉を垂れ流していない。今時の若い人にありがちな「私イズム」の強制もない。潔いのである。
 無機質なやわらかさ持つ回廊を抜けて木立の中を棺は
 睡蓮が色づく真夜の対岸で手放すように押される舳先
 きのう海で拾いあぐねた巻貝のかたちを告げる君のゆびさき
 おんなたちのさざめく街は足早に過ぎる額のしるし隠して
などなど。恣意的に詠まれた歌の数々が、整然と並んでいる。いい新人に出遭えた、という感じ。
じめついた感覚は苦手なんだよね、何にしても。

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06/23/2003

奥村晃作氏による紹介

奥村晃作さんが、ご自身のサイトで歌集を紹介して下さいました。
http://www5e.biglobe.ne.jp/〜kosakuok/

2003/6/23(月)曇 
ひぐらしひなつ歌集『きりんのうた。』BookPark・1400円+税 [歌 葉 18](オンデマンド出版)(2003年5月30日刊)を読む。
パソコン通信の歌会で作歌を始め、その後もインターネットのみを短歌の場とするネット系の歌人。「ラエティティア」所属。大分市在住。
13の連作で構成された相聞歌集である。

疲れたら一緒にねむるひとつずつプールサイドにかげをおとして
朽ち果てたバスの座席のひだまりで抱きあうシャツの背中よごして
夜半からの降雨確率告げているラジオ 切り出せないままでいる
(連れ出して。真昼の月がかがやきを取り戻すより早く、ここから。)
せめて手をつないだままでしんしんと光の繭にふたりは眠る
鼻面をシロツメクサにおしあててただ待っていた次のことばを
二度ばかり母になりそこねたことを告げてしずかに咲く鬱金香
ありったけの羽毛布団を引き裂いてすこやかなものなんてもう嫌
こんなにもこころもとなくつながってあっけなくあっけなく終った
汚れてもいい明日またこの場所で天王星を探せるのなら

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06/16/2003

坂本樹氏による紹介

坂本樹さんが、ご自身のサイトで歌集を紹介して下さいました。
http://www5b.biglobe.ne.jp/〜bleu/

「きりんのうた。」の世界

春の星座になりそこなった白熊が眠るよ春の星座の下で

はじめてひぐらしひなつのうたを読んだとき、うたの周りから、淡い予感のような想いが伝わってきて、ぼくはたまらなくせつなくなった。ぼくは、ひぐらしひなつのうたを、もっともっと読みたいと思った。そんなときにひぐらしひなつのホームページのうたをみつけた。
めぐりあえた。と思った。ぼくたちはめぐりあえたと思った。こういううたをずっと読みたいと思っていた。ずっと、こういううたたちにめぐりあえると信じて、ぼくはうたを続けてきた。

やわらかく脈打つからだここにあるすべてのものを消して なのはな

ぼくは、このうたは、愛のきわまった状態だと思う。きりんのうた。のなかの「きりんのうた。」という連作は、具体的には愛する人と一緒に生きるための場所にたどりつくという構成なのかもしれないが、そのなかでもこのうたは愛のきわまった状態だと思う。「やわらかく脈打つからだ」は新しい季節へ、愛の季節への予感に体全体が、からだの中を流れるものが、反応しているということだろう。下句がすごい。「ここにあるすべてのものを消して」で、ふたりきりの、ほかには何もいらない、ふたりぼっちの世界をはじめようという、願いが伝わってくる。そして、その想いが結晶したのが「なのはな」という呪文のようなことばだ。この「なのはな」へむけてこのうたはかかれている。ぼくは、「なのはな」を見た瞬間、本当の世界の姿が見えたと感じた。本当の世界はこんな感じなんだと、わかった。

濡れながら芝生を掘った たいせつなたいせつなものだからこの手で

短歌は詩であっていいとおもう。むしろ詩であるべきだとおもう。このうたでぼくは、「濡れながら芝生を掘った」という、何の飾りも建前もなく、濡れるものかまわず、芝生を掘るという行為に、本当の世界の姿を感じる。濡れながら芝生をほるというのは、ああ、本当の世界の姿なんだなとおもう。手で芝生の土を掘り返したとき、作中人物は、本当の世界に触れたんだなと思う。それは詩だ。濡れながら芝生を掘るという、何の建前もない行為が、詩を感じさせる。詩というのは、ぼくにとっては、本当の世界の姿だ。

「背、高いね」「いちど死んでるからかもね」肘ふれあって波ばかりみている

「背、高いね」に「いちど死んでるからかもね」とこたえる。背がたかいのはいちど死んでるからだ、というのがぼくには世界そのもののようにおもえる。「背、高いね」「そうかな、75センチだけれどな」と、そういうのではなく、背が高いねっていうほめことばにたいして、いちど死んでるからかもねと、きちんと答えてることが、ぼくにはかけがえもなく美しい詩におもえる。たぶんこの恋人たちはわかりあっている。好きだよとかいわなくても、手を握って海を見ているだけでも、わかりあってる。そして、ひとたび口をひらくと、建前を超越したふたりの関係があらわれてくる。肘というのは、肘でつつきあうとか、そういうときに使うからだの部分だと思うが、肘がべったりとくっつくこともなく、離れることもなく、肘をふれあわせながら、ふたりはもう黙って海を見ている。よせてはかえす海のしずけさはやがてふたりをつつみこんでしまうだろう。それはこのうえもなく美しい海の情景である。それは世界の本当の姿だ。

輪郭を不確かにする夕暮れにたったひとつが揺れやまなくて

夕暮れはいちばんものが揺れやすい時間だ。ぼくという存在が、夕暮れの茜色のなかに立ち尽くし、そのぼくのこころが揺れている。そのぼくのたったひとつのこころが揺れやまなくてぼくの輪郭は不確かなものへとなっていく。少年から大人になる、そのときに、夕暮れにあった。夕暮れに包まれたとたんに、こころが揺れ、こころが揺れたまま、夕暮れに包まれている。その傷つきやすい少年のこころが、夕暮れのなか、いつまでもいつまでも揺れやまない。どうしよう。どうしよう。そのとき少年はもう、どうしようもなくなっていたかもしれない。しかし、その残酷な一瞬は、世界に触れえた瞬間であり、世界の本当の姿でもある。

ずっと雨の音がしている傾いたまま聞いている水草の夢

あおいさかなが迎えにくるから行かなくちゃ 絡まったまま揺れるゆびさき

呼びあってもっと遠くに行きたくて水銀灯に照らされている

いま、ぼくは予感というものを考えていた。ひぐらしひなつのこれらのうたからは予感がにじんでいる。それは、ひぐらしの中で繰り返されるついにかなわない約束の予感なのかもしれない。ひぐらしのうたでは、約束はいつだってかなわない。しかし、それをポーズとしているのではなく、夢のなかでみたひかりのように、いつだってかなわないものを、切実に感じているのだろう。それは、ぼくたちの遠い記憶をよびさます。

ぼくは、短歌は詩であって当然だと思う。詩なのは当たり前だとおもう。短歌を書けばなにもかも詩になる、というのではなくて、短歌を書くということは、すなわち、詩をかくということだ。詩なのは当たり前だ、という次元で、短歌といえば、詩なんだということが、当たり前の前提として、短歌はつくられるべきだとおもう。短歌は詩の形式であって、韻律とか歌謡性とかあるかもしれないが、ただ単に57577の器なだけだ。そこにいれるこころが、世界というものの本当の姿を掴んでいれば、その器は、水を入れる袋のように、自在な形、たとえば、詩になるだろう。

ぼくは、きっとひぐらしひなつのうたに世界の本当の姿をみる。

それは、建前のない、ありのままの世界だ。詩として表現してあるから詩だ、というのではない。大げさなことばだが、本当の世界は詩なのだとおもう。文字化されているという意味の詩という、字義的な意味での詩ではなくて、ただ、もうどうしようもなくある世界。ありのままの世界。たとえばサバンナでシマウマがライオンに喰われるとか、戦争で恋人が死んでしまったとか、そういうのが、世界の本当の姿であり、夕焼けの美しさに声が出なくなるとか、それは感動なのであって、詩ではない。感動したことをじかに伝えるのが、詩ではない。本当の詩というのは、世界を鷲掴みにしてくる。本当の詩というものは、世界そのものだ。世界には善も悪も両方ある。世界は混沌としている。すっきりさせなくちゃいけない、というのではなくて、混沌としているというのが世界の本当の姿だろう。その、矛盾に満ちた世界を、鷲掴みにする。その行為が詩を書く、たとえば短歌を書くということなのだろうとおもう。

ぼくは、ひぐらしひなつのうたからは、世界を鷲掴みにしているとは、そこまで力強いものは感じないが、予感のように世界をすくいとっている、と感じる。繊細なゆれるこころで、世界をやさしく、せつなく差し出している。

「きりんのうた。」はたぶん恋の歌集なのだとおもう。しかし、ぼくは、表面的なことはあまりよく見えない。「きりんのうた。」は、恋するこころを書いていったものだと、多くの人はいうだろう。そしてそれが定説となるだろう。しかし、ぼくは「きりんのうた。」の随所にみられる、世界そのものを見た、という、予感のような、世界を感じ取ってしまう力に惹かれている。第一歌集をつくって、じゃあ、そのあとどうするのか、何が書けるのか、何を書きたいか、それを考えながら、また新しい場所へあるいていく。それが表面的には恋なのだとしても、その本質は変わらないはずだ。世界を感じる力、それをぼくはひぐらしひなつのうたに期待している。

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06/15/2003

風間 祥氏による紹介

風間 祥さんが、ご自身のサイトで歌集を紹介して下さいました。
http://www5e.biglobe.ne.jp/〜kazama/

■2003/06/15 (日) 11:23:03 ひぐらしひなつさんの歌集『きりんのうた。』

プレゼントは一番大きなテディベアとてもかなしい永遠がある  ひぐらしひなつ

なんていい歌だろう。
かなしくてやさしくて。
「とてもかなしい永遠がある」。
おおらかで大胆で直感的な把握と、繊細な至純さのunbalance。
天性詩人という気質、資質があるなら、この作者のような人に宿っているのかもしれない。それに「きりんのうた。」・・・冒頭の詩がすごくいい。
奥底の哀しみ、通常の手段では解消できない種類のかなしみが湛えられていて、生理的にも感覚的にも歌いだされなければならなかった必然を感じせる歌集だった。

君はもう春のひかりにとけながらどうしてそんなに笑ってばかり

「さよなら」の「ら」を鳴らせずにこときれたオルゴールからこぼれる明日

ありふれたさよならだった缶コーヒーのプルトップで爪を傷めるくらいの 

雨の日はほかの誰にも触れ得ないノブを回してあなたに出逢う

いつだってひとりがすてき 裏庭のこわれたチェロに花を飾った

さびしくてペン動かせば横顔をゆびはおぼえていたのだろうか

足早に過ぎゆく時間 はりつめた頬にやさしく降りしきれ、雪

ことごとく薊は燃えて母の住む街へのバスは行ってしまった  

世界から剥がれ落ちそう どの窓も遠く明るく満ち足りている

天窓をひらく手筈をととのえて審判台にわたしを運ぶ

しっとりと汗ばんで地に沈みゆくサラブレッドのように終わって

つなぐべき手はポケットに入れたままこの世の終わりと思う夕焼け

果てしない物語にもあるはずの最後の頁をひらく日を知る

またひとり逢えなくなったひとがいる 路面電車に降りしきれ、花


                ひぐらしひなつさんの歌集『きりんのうた。』より

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06/14/2003

なかはられいこ氏による紹介

なかはられいこさんが、ご自身のサイトで歌集を紹介して下さいました。
http://www.ne.jp/asahi/myu/nakahara/

青い空と青い空と青い空。
両足を開いて大地を踏みしめて、
じっと空の一点を見つめるおんなのこ。
猫科の野生動物のような目が見えたような気がした。

ほんとうはすごく生真面目な人なんじゃないかと思う。
精神の濁りや澱を許さない潔癖さ。
ぎりぎりの切実さが伝わってきて泣きそうになる。
この張りつめ感にはどこかで出会ったことがあるノノ。
グラスになみなみと注がれる水の、
あと一滴でも多く垂らせばたちまち崩れてしまう、
水表面張力だけで持っているようなノノ。
あ、そうだ。
錦見映理子さんと似てるんだ。
歌のかたちはぜんぜん似てないのに。
おもしろい。

  やわらかく脈打つからだここにあるすべてのものを消して なのはな/ひぐらしひなつ『きりんのうた。』

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06/12/2003

荻原裕幸氏による紹介

荻原裕幸さんが、ご自身のサイトで歌集を紹介して下さいました。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/

ここにあるすべてのものを
Date: 2003年06月12日 (木)

ブックパーク【歌葉】から、叢書の18冊目として、
歌集『きりんのうた。』がリリースされている。
ひぐらしひなつさんの第一歌集である。
著者によるPRサイトもスタートしている。

 こわれゆくおもちゃのように手を振った虚空に刺さる遮断機の下/ひぐらしひなつ
 やわらかく脈打つからだここにあるすべてのものを消して なのはな
 グラスから矢車菊は抜き取られわたしがしずかに毀れはじめる
 嘘ではない、嘘ではないがどこまでも滑らかである彼の言葉は
 果てしなく銀のセスナが堕ちてゆく葡萄木立につづく坂道

ひぐらしさんの歌からは、リリカルとかセンチメンタルを超えて、
つねに、涙腺が全開になっている、という印象をうける。
どの歌にも泣き腫らした貌の「わたし」がはりついている。
けれど、具体的に何かが悲しいというばかりではなく、
赤ん坊が泣くような、それ自体が伝達になっている感じ。
書きはじめの頃から縁があって彼女の作品を読みつづけ、
文体や方法についてはあれこれと口も出しているのだが、
この高いテンションだけは一切変わらずに維持されている。

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