坂本樹さんが、ご自身のサイトで歌集を紹介して下さいました。
http://www5b.biglobe.ne.jp/〜bleu/
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「きりんのうた。」の世界
春の星座になりそこなった白熊が眠るよ春の星座の下で
はじめてひぐらしひなつのうたを読んだとき、うたの周りから、淡い予感のような想いが伝わってきて、ぼくはたまらなくせつなくなった。ぼくは、ひぐらしひなつのうたを、もっともっと読みたいと思った。そんなときにひぐらしひなつのホームページのうたをみつけた。
めぐりあえた。と思った。ぼくたちはめぐりあえたと思った。こういううたをずっと読みたいと思っていた。ずっと、こういううたたちにめぐりあえると信じて、ぼくはうたを続けてきた。
やわらかく脈打つからだここにあるすべてのものを消して なのはな
ぼくは、このうたは、愛のきわまった状態だと思う。きりんのうた。のなかの「きりんのうた。」という連作は、具体的には愛する人と一緒に生きるための場所にたどりつくという構成なのかもしれないが、そのなかでもこのうたは愛のきわまった状態だと思う。「やわらかく脈打つからだ」は新しい季節へ、愛の季節への予感に体全体が、からだの中を流れるものが、反応しているということだろう。下句がすごい。「ここにあるすべてのものを消して」で、ふたりきりの、ほかには何もいらない、ふたりぼっちの世界をはじめようという、願いが伝わってくる。そして、その想いが結晶したのが「なのはな」という呪文のようなことばだ。この「なのはな」へむけてこのうたはかかれている。ぼくは、「なのはな」を見た瞬間、本当の世界の姿が見えたと感じた。本当の世界はこんな感じなんだと、わかった。
濡れながら芝生を掘った たいせつなたいせつなものだからこの手で
短歌は詩であっていいとおもう。むしろ詩であるべきだとおもう。このうたでぼくは、「濡れながら芝生を掘った」という、何の飾りも建前もなく、濡れるものかまわず、芝生を掘るという行為に、本当の世界の姿を感じる。濡れながら芝生をほるというのは、ああ、本当の世界の姿なんだなとおもう。手で芝生の土を掘り返したとき、作中人物は、本当の世界に触れたんだなと思う。それは詩だ。濡れながら芝生を掘るという、何の建前もない行為が、詩を感じさせる。詩というのは、ぼくにとっては、本当の世界の姿だ。
「背、高いね」「いちど死んでるからかもね」肘ふれあって波ばかりみている
「背、高いね」に「いちど死んでるからかもね」とこたえる。背がたかいのはいちど死んでるからだ、というのがぼくには世界そのもののようにおもえる。「背、高いね」「そうかな、75センチだけれどな」と、そういうのではなく、背が高いねっていうほめことばにたいして、いちど死んでるからかもねと、きちんと答えてることが、ぼくにはかけがえもなく美しい詩におもえる。たぶんこの恋人たちはわかりあっている。好きだよとかいわなくても、手を握って海を見ているだけでも、わかりあってる。そして、ひとたび口をひらくと、建前を超越したふたりの関係があらわれてくる。肘というのは、肘でつつきあうとか、そういうときに使うからだの部分だと思うが、肘がべったりとくっつくこともなく、離れることもなく、肘をふれあわせながら、ふたりはもう黙って海を見ている。よせてはかえす海のしずけさはやがてふたりをつつみこんでしまうだろう。それはこのうえもなく美しい海の情景である。それは世界の本当の姿だ。
輪郭を不確かにする夕暮れにたったひとつが揺れやまなくて
夕暮れはいちばんものが揺れやすい時間だ。ぼくという存在が、夕暮れの茜色のなかに立ち尽くし、そのぼくのこころが揺れている。そのぼくのたったひとつのこころが揺れやまなくてぼくの輪郭は不確かなものへとなっていく。少年から大人になる、そのときに、夕暮れにあった。夕暮れに包まれたとたんに、こころが揺れ、こころが揺れたまま、夕暮れに包まれている。その傷つきやすい少年のこころが、夕暮れのなか、いつまでもいつまでも揺れやまない。どうしよう。どうしよう。そのとき少年はもう、どうしようもなくなっていたかもしれない。しかし、その残酷な一瞬は、世界に触れえた瞬間であり、世界の本当の姿でもある。
ずっと雨の音がしている傾いたまま聞いている水草の夢
あおいさかなが迎えにくるから行かなくちゃ 絡まったまま揺れるゆびさき
呼びあってもっと遠くに行きたくて水銀灯に照らされている
いま、ぼくは予感というものを考えていた。ひぐらしひなつのこれらのうたからは予感がにじんでいる。それは、ひぐらしの中で繰り返されるついにかなわない約束の予感なのかもしれない。ひぐらしのうたでは、約束はいつだってかなわない。しかし、それをポーズとしているのではなく、夢のなかでみたひかりのように、いつだってかなわないものを、切実に感じているのだろう。それは、ぼくたちの遠い記憶をよびさます。
ぼくは、短歌は詩であって当然だと思う。詩なのは当たり前だとおもう。短歌を書けばなにもかも詩になる、というのではなくて、短歌を書くということは、すなわち、詩をかくということだ。詩なのは当たり前だ、という次元で、短歌といえば、詩なんだということが、当たり前の前提として、短歌はつくられるべきだとおもう。短歌は詩の形式であって、韻律とか歌謡性とかあるかもしれないが、ただ単に57577の器なだけだ。そこにいれるこころが、世界というものの本当の姿を掴んでいれば、その器は、水を入れる袋のように、自在な形、たとえば、詩になるだろう。
ぼくは、きっとひぐらしひなつのうたに世界の本当の姿をみる。
それは、建前のない、ありのままの世界だ。詩として表現してあるから詩だ、というのではない。大げさなことばだが、本当の世界は詩なのだとおもう。文字化されているという意味の詩という、字義的な意味での詩ではなくて、ただ、もうどうしようもなくある世界。ありのままの世界。たとえばサバンナでシマウマがライオンに喰われるとか、戦争で恋人が死んでしまったとか、そういうのが、世界の本当の姿であり、夕焼けの美しさに声が出なくなるとか、それは感動なのであって、詩ではない。感動したことをじかに伝えるのが、詩ではない。本当の詩というのは、世界を鷲掴みにしてくる。本当の詩というものは、世界そのものだ。世界には善も悪も両方ある。世界は混沌としている。すっきりさせなくちゃいけない、というのではなくて、混沌としているというのが世界の本当の姿だろう。その、矛盾に満ちた世界を、鷲掴みにする。その行為が詩を書く、たとえば短歌を書くということなのだろうとおもう。
ぼくは、ひぐらしひなつのうたからは、世界を鷲掴みにしているとは、そこまで力強いものは感じないが、予感のように世界をすくいとっている、と感じる。繊細なゆれるこころで、世界をやさしく、せつなく差し出している。
「きりんのうた。」はたぶん恋の歌集なのだとおもう。しかし、ぼくは、表面的なことはあまりよく見えない。「きりんのうた。」は、恋するこころを書いていったものだと、多くの人はいうだろう。そしてそれが定説となるだろう。しかし、ぼくは「きりんのうた。」の随所にみられる、世界そのものを見た、という、予感のような、世界を感じ取ってしまう力に惹かれている。第一歌集をつくって、じゃあ、そのあとどうするのか、何が書けるのか、何を書きたいか、それを考えながら、また新しい場所へあるいていく。それが表面的には恋なのだとしても、その本質は変わらないはずだ。世界を感じる力、それをぼくはひぐらしひなつのうたに期待している。
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